紺屋海道
染物屋があったことから、そう呼ばれる紺屋海道。かつて交通の要所として栄え、今でも黒壁の蔵などが残っています。本当の海道ルートは今でも不明だったり、昔は海だったともいわれていたり、たくさんの謎が秘められています。
抱き地蔵 四国20番龍台院
まず、願い事をお祈りしてからお地蔵さんを持ち上げます。軽々と抱けた場合は願い事がかない、重くて上がらない場合は願い事がかなわないといわれています。ただし抱きかかえている姿を誰かに見られないように。見られたら願い事がかなわないそうです。さあ、あなたも試してみませんか?
JR半田駅跨線橋
■日本最古の跨線橋、半田から各地への旅の玄関 1910(明治43)年に建造され、現存するものでは最古、またJRで現在使用されている駅舎としては最古。橋の支柱には「明四十三鐡道新橋」と鋳込まれています。またレンガ造りの油倉庫も同時に設置され、夜間信号機の火に使う灯油が保管されていました。大正3年には半田市榎下町のカブトビール工場から半田駅まで私設軌道が敷設され、製品をトロッコで運びました。 どちらも早くから繁栄していた半田を語る、貴重な歴史財産です。
瀧田家
常滑は、江戸時代から明治前期にかけて、上方や江戸と伊勢湾の周辺地域を結ぶ廻船の町としても栄えました。ここでは、千石船の模型や菜種油を用いた灯火具(無尽灯)などが展示されています。
大光山安楽寺(だいこうざん あんらくじ)<知多四国八十八ヵ所巡礼 第六十番>
当寺が位置する苅屋地区は、源頼朝主従が一夜を過ごした仮の宿が地名のもとと言われる。本尊は行基菩薩の作と伝えられ、1537年織田、今川の戦火から守るため第61番高讃寺から移された。1845年に本尊が再建。縁日は3月の第3日曜日。 【宗派、本尊】曹洞宗、阿弥陀如来 【場所】知多バス苅屋バス停から東へ約300m(Pあり)
タコ阿弥陀(安楽寺)
その昔、地震で海に沈んだといわれる寺の仏像が引き揚げられた時、1匹の大ダコが仏像を守るように抱きついていたとか。以来、島民は仏像をタコ阿弥陀として祀り、今もなお大漁と安全、子孫長久を祈願しています。
権現山・植公園
権現山は、新美南吉の「ごんぎつね」の舞台になったといわれています。山の中には権現さんとよばれる五郷社があり、境内は植公園として人々に憩いの場となっています。
知里付神社
浦島太郎ゆかりの神社。境内には、浦島太郎が竜宮城から持ち帰った玉手箱があるといわれている「あけずの箱」(非公開)が、大切に保存されています。
カッパ家族
海岸沿いの野間に父・野間太郎、河和に母・ゆり子、そして名鉄河和口駅前には娘・花子。3体揃ってカッパ家族と呼ばれています。子どもたちが上手に泳げるように、水難事故に遭わないように、と願いを込めて建てられたとか。今も観光客を愛嬌たっぷりに出迎えるカッパたち。ぜひ家族全員に会ってみませんか?
あゆち潟の歌碑
愛知の名の由来ともいわれるあゆち潟の跡に建つ諏訪神社の境内にあります。歌碑に刻まれているのは、知多の浦を詠んだ歌で、万葉集にもおさめられています。のどかな情景を詠んだこの歌に、悠久の時への思いをはせてください。 ■歌碑 ・旧歌碑右 旧歌碑表 巻7-1163 作者不詳 【年魚市方塩干家良 思知多乃浦爾朝榜 舟毛奥爾依所見】 「年魚市方(あゆちがた)塩干にけらし知多の浦にあさこぐ舟も沖によるみゆ」と詠む。 ・新歌碑裏 文化15年(1818)歳春 吉田定興建 并書 【新歌碑】年魚市方塩干家良 思知多乃浦爾朝榜 舟毛奥爾依所見「あゆち潟潮ひにけらし 知多の海に朝こく 舟も沖に寄る見ゆ」 と刻まれている。 この歌は、地方歌にしては珍しく、地名のはっきりした歌である。「あゆち潟」は、「あゆち」に沿う海辺、すなわち「旧愛知郡」の海辺で、現在の名古屋市南区笠寺町付近をさしている。 「知多の浦」は、現在埋め立てられて名古屋南部臨海工業地帯となっている。名古屋市南部から東海市、知多市にかけての遠浅の海岸をいったものであろう。 ■交通 名鉄常滑線尾張横須賀駅、北東へ1km。
岡田の街並み
江戸時代から知多木綿で栄えたまち岡田。ゆるやかな坂道の両側には、古い木綿蔵や商家が残る懐かしい街並み。洋館風の岡田簡易郵便局は、文明開化の風情を残しています。
野間大坊
貴重な歴史遺産が多数存在する、野間大坊。源頼朝の墓をはじめ、源頼朝が建立した大門、広大な本堂、客殿、国の重要文化財の梵鐘などを訪ねる、歴史散策が楽しめます。
蔵の立ち並ぶ運河
江戸時代、早くから港が整備されていた半田は、知多半島の産物である酒や酢などの江戸に運ぶ拠点として栄えてきました。その名残をとどめる醸造蔵は、今も半田運河沿いで現役として大活躍。独特の黒塗りの蔵が並ぶ風景と周辺にただよう酢の香りは、国の「香り風景百選」にも選ばれています。 運河の周辺に立ち並ぶのは、その面影を色濃く残す蔵の数々。江戸時代へタイムスリップしたかのような、懐かしい情景を描いています。
於大の遺髪墓
松平家に嫁いだ於大の方は、家康を生んだ後、政略的な理由から離縁され、阿久比の久松家に嫁ぎました。久松家で生涯を過ごし、菩提寺の洞雲院には遺髪墓があります。
C’s Gene
C’s Geneでブライダルリングを作るということは、世界に一つだけのリングを作るということ。それはまず、作り手と直接話をすることから始まります。二人のこだわり、思い出、未来…。職人であるオーナーがその思いを確かな技術でカタチに。二人の絆をさらに深めるフルオーダーの特別なリングです。
野間灯台の風景
1921(大正10)年に点灯された、野間灯台。高さは18m。晴れた日の青い空、澄んだ青い海によく映える、白亜の灯台です。伊勢湾航路の安全を見守る役割を、今も変わらず担っています。また、灯台とともに眺める海の風景は多くの人々を魅了し、絶好のビュースポットとして親しまれています。人気が高いのは、ロマンチックな夕暮れ時。伊勢湾に沈む夕陽は海と空、そして白亜の灯台も茜色に染めてゆきます。陽が沈んだ後は、やがて夜の闇がゆっくりとロマンチックな時間に幕を下ろしていきます。
野間灯台の掟
海を赤く染める夕日に浮かぶシルエット。美しい風景が、ふたりの心に忘れられない思い出を刻む野間灯台。そんなロマンチックな灯台にふさわしい伝説が、これ。灯台のまわりにあるフェンスに南京錠をかけるとそのカップルは離れることがないそうです。
亀崎の鬼門地蔵
亀崎の路地にひっそりとたたずむ地蔵。全国的に非常に珍しい個人所有の地蔵です。その数は45体。一時は150体近くあったといわれ、地区の地蔵と共に生活に溶け込んできました。共同井戸も10ヶ所以上あり、小道をすり抜ける道すらが不意に出会うのも一興です。
帝井
1338(延元3)年、義良(のりなが)親王(後の後村上天皇)が篠島に滞留された際に使われた井戸。岩畳は勝手の遺構をそのまま留め、今も美しく澄んだ水が湧いています。
野間大坊「血の池」
国家に一大事があると赤くなるといわれている「血の池」。入浴中だまし討ちにあい、”我に木太刀の一本なりともあれば・・・”との言葉を残し斬殺された源頼朝の父、義朝の首級を洗った池といわれています。野間大坊の鏡内にある義朝の墓には、最期の言葉にちなんで多くの木太刀が供えられています。
宇宙山乾坤院
1475(文明7)年に於大の方の生家、水野家が創建した乾坤院。境内は2万坪もあり、松や杉を背景にした七堂伽藍や於大の方の位牌など、歴史と趣を感じる空間です。
法海寺
「八幡のオヤクッサン」と親しまれている薬王山法海寺は、日本三薬師のひとつとされている古刹。天智7(668)年、8月3日の創建とされ、以降、淳和(じゅんな)天皇に至る13代の勅願寺として堂宇壮観、内外12院があったと伝えられている。現在の本堂は平成4年に再建、仁王門と仁王尊像は平成22年に、全面的に解体したのち修復復元された。【HP】https://houkaiji-yawata.com/
聚楽園の大仏
1927(昭和2)年、昭和天皇のご成婚を記念して建立され、市のシンボルとして親しまれています。名鉄電車からも見ることができ、かつては眉間から光を放っていたとか。不思議なエピソードも盛りだくさん。 身の丈は、なんと14.98m。鉄筋コンクリート造りで、台座には一切経の写経石が埋められています。実業家・山田才吉が昭和天皇のご成婚を記念して、1927(昭和2)年5月21日に開眼供養.以来、東海市のシンボルとして、時代とともに発展していく東海市を見つめてきました。大仏の正面にある階段の両脇では、5mほどの仁王像が観光客を出迎えています。
恋の水神社
家臣と駆け落ちした桜姫は、重い病にかかった恋人を助けるために、病に効く水と名高い”恋の水”を求めて神社に向かいますが、たどり着けぬまま息絶えてしまいました。この悲しいロマンスにちなみ、神社の名が付けられたといわれています。今では縁結びの神として、恋の成就を願う人々やカップルがたくさん訪れています。 ■交通アクセス 電車:名鉄知多新線知多奥田駅下車、タクシーで約5分。(車線左手に)“水色の鳥居”が目印 車:南知多道路美浜I.C.を出て、出口信号交差点を右折し県道小鈴谷河和線を約3キロメートル、上野間信号交差点を左折し国道247号を南へ約1キロメートル、奥田北信号を左折約2キロメートル。(車線左手に)“水色の鳥居”が目印
鉄製直角二線式転車台
武豊・大府間を結ぶJR武豊線の終点は武豊駅。1886(明治19)年の開通当初は、武豊港に停車場があり、1892(明治25)年現在地に武豊駅が設置される前までは、ここが武豊駅でした。開通して15年がたち港に隣接して石油油槽所がつくられると、石油タンク車が油槽所構内に入るための専用路線が敷設されました。開通当初の武豊駅が武豊港駅と名を変えた1930(昭和5)年頃、専用路線にタンク車の方向を帰る転車台が設置されました。この転車台は、直角二線式という方式のもので、全国でもここにしかないといわれています。一般にある
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